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Les Sang et Or

Jリーグ名古屋グランパスサポの日記です。

民主主義は「普遍」であるだろうか

「民主的だ」という言葉を,ものごとに対する評価に用いる人がいますよね。
「あの団体は非常に民主的でいいね」とか,「そのやりかたは民主的でないなあ」とか。

それを聞くたびに僕は,ちょっとした違和感を覚えるんですね。
そこでは,民主的,民主主義的であるということが「価値あるもの」あるいは「正義」として捉えられているわけですが,しかし,あるものが民主主義的であるという状態が,ものごとの善し悪しにつながるというのはどういうことなのか。
はて,民主主義ってそういうものだったっけかな?

学校では,民主主義(democracy)とは,国民の意思に従って政治を行う政治体制のことだと習いましたね。
だとすると,民主主義というのは単に,政治についての一つのやり方,コンセプトでしかないはずではなかろうか。
なぜ,それが「よいもの」「価値あるもの」「正義」といった評価の問題につながるのでしょうか。

実は,憲法学の世界では,民主主義というのは個人の人権を保障するための手段の一つにすぎない,と言われております。

そこでは,個人はそれぞれが個々に尊重されなければならず,一人一人の持つ人権は,かけがえのない価値を有するものであって,絶対に守られなくてはならないということを大前提としたうえで,「およそ権力というものは,我々の人権を制約してくるものである」ということを小前提とします。

「ならば,その権力を国民自身が握ったらよいのではないか」というのが,人権保障の手段としての民主主義という考え方です。
つまり,権力を持ち統治する者(=人権を制約してくる者)と,権力によって統治される者(=人権を制約される者)とが,同一性を有しているということがキモでありまして,要は,自分の首を絞めるとき,もっともその力が弱いのは,自分自身で絞めるときである,という理屈なのであります。これを難しく言うと「治者と被治者の自同性」といいます。

ということは,民主主義が「価値あるもの」「正義」でありうるのは,あくまで人権保障の手段として使われるという想定の上でのみのはずなのです。

ところが,いつのまにか,手段の一つに過ぎないはずの民主主義が一人歩きしているように思えます。「民主的」「民主主義的」ということそれ自体に価値がおかれてしまっている。

この点について,わが憲法も,「民主主義は人類普遍の原理」と言い切っています。
すなわち,憲法はその前文において,「そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。」と民主主義を採用することを宣言していますが(※ちなみに,この部分は,有名なリンカーンのゲティスバーグの演説「人民の,人民による,人民のための政治」の言い換えです),そのすぐ後の文で,「これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。」ときわめて断定的に述べているのです。

「人類普遍の原理」。英文だと"This is a universal principle of mankind"ですが,ここでは,民主主義自体が普遍の原理,すなわちあまねく世界に例外なく該当する絶対的な原理,極論すれば,それに反するものの存在が許されない原理だとまで言われているのです。

民主主義自体を「普遍の原理」とまで言い切ってしまうことに対しては,本来手段にしかすぎないはずの民主主義が,それ自体実現されなければならない目的そのものに変質しはしないかという危惧を持ってしまいます。

この問題があらわになったのが,現在もなお続くイラク戦争ではないでしょうか。
この戦争に際して子ブッシュが当初掲げていた戦争遂行の大義は,「大量破壊兵器の保有」でありました。そして,大量破壊兵器の存在が怪しくなりかけたころ,戦争の大義は,「イラクの民主化」というものに巧妙にすり替えられていきました。
サダム・フセインによる独裁制を打ち倒し,イラクに民主主義をもたらすこと,それが正義であり,戦争遂行の大義だと。
そこではやはり,民主主義こそが普遍の原理であり,正義であるという価値観が前提になっていました。

自分の持っている価値観を誰かに無理やり押し付けるというその野蛮さ,傲慢さはさておくとしても,この「民主化のための戦争」という論理には,大きな欺瞞があると思います。
日々傷つけられていくイラク人民にとってみれば,戦争そのものが最大の人権侵害のはずです。
なぜ,人権保障のための手段にしか過ぎないはずの民主主義が,このような人権侵害を正当化する根拠になりうるのでしょうか。
民主主義の本来的あり方からすれば,これは本末転倒です。

民主主義がどんなに素晴らしいコンセプトだったとしても,それを押し付けようとする過程において民衆の血が流れることを正当化することはできないのではないでしょうか。

そしてまた,イラクの政治が民主的でないから変えていこうというのは,イラク人自身の問題であって,誰かがこうせよと無理矢理押し付けてよい問題ではないと僕は思います。
民主主義は,その国の民衆自らが主体的な意思決定に基づいて,「人権保障のための手段」として勝ち取ってこそ,はじめて意味を持つのではないのでしょうか。
人権保障というものを根底に持たない民主主義というのは,単なる「政治的マジョリティによる,マイノリティに対する圧制」を正当化するためのツールに堕してしまう・・・

僕は,「人権保障の精神が成熟していないにもかかわらず,無理矢理に民主主義を押しつけられてしまった国」の住人として,そんなことを感じたりしています。

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  1. 2006/06/17(土) 06:38:17|
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